ぜんそく征服ジャーナル

137号
日本のぜんそく研究の流れ(5)  (ぜんそくはアレルギーと考えた時代)  


■アレルギーの研究と治療のはじまり
「日本のぜんそくにはアレルギー性ぜんそくはない」と主張していた有名な教授が日本の医学会に君臨しているあいだは、日本ではアレルギーの研究をする学者がいませんでした。

この教授が定年になり、退職した頃から急速にアレルギーの研究とか治療が盛んになってきました。

昭和30年を過ぎた頃です。

内科の関係ではまず昭和医大の川上教授(後、昭和医大学長)さらに東大物療内科・大島教授、群馬大学内科・七条教授、岩手医大・光井教授をはじめ十数名、小児科領域では群馬大学・松村教授、千葉大学・久保教授をはじめ九段坂病院・中山先生(後、埼玉医大教授)、国立小児病院・村野先生、同愛記念病院・馬場先生、その他関東地方で十数名が研究と治療をはじめました。関係以外では当時、名大分院小児科長であった久徳も研究をはじ
め、間もなく小児アレルギー研究会かつくられました。

■実地臨床では
このようなわけで、まず関東を中心にした20前後の病院で、アレルギー抗原の研究、その抗原でスクラッチテスト(皮膚にかき傷をつくって抗原液をのせ、テストする方法)や、皮肉注射をして原因の抗原をさがす方法、原因の抗原を確認するため直接吸入して発作がおこるかどうかを確かめる誘発テスト、ぜんそくの原因抗原としてどんな種類のものが多いのかなどの調査が行われました。

この時代はまだ現代のようにテスト抗原液も治療用抗原液も市販されていない時代で、米国Holister社の抗原を買ったり、テスト用抗原を自分でつくったりしていました。減感作療法も行なわれ、その治療効果も発表されるようになりました。

■学問の花形
アレルギーの研究や治療は次第に日本全国に拡がり、小児科や内科の学会の花形になっていきました。

時代はちょうど高度成長時代に入り、昭和30年から35〜6年にかけて、寄生虫症も伝染病もへり、ポリオも日本脳炎もなくなり、乳幼児の死亡も少なくなりはじめた頃です。

そんな時代に全く新しい学問がはじまったわけですから、学問の花形になっていったのは当然のことかも知れません。

特に小児科ではアレルギーの研究は小児科学の花形で、それだけに研究の中心となったスタッフの意気込みは大変熱を持ったものでした。

小児アレルギー研究会は会員制の研究会で、関東地方の学者が主で、関東以外から参加したのは、当時、名古屋大学で研究をしていた久徳(現久徳クリニック院長)だけでした。

この研究会は結束も強く、意欲も盛んで小児のアレルギー臨床のあらゆる面で莫大な研究をし、日本の小児アレルギーの基礎をつくりました。昭和35〜40年頃のことです。

アレルギーについての学会は昔から日本アレルギー学会がありましたが、それとは別に小児アレルギー研究会も、小児アレルギー学会となり、アレルギーに関心のある医師が自由に参加できるようになり、アレルギーの研究や治療の輪は昭和40年をすぎた頃から日本全国に拡がりはじめました。

■アレルギーに目がくらんだ
この傾向は、日本全体にアレルギーの研究や治療をひろめるのに非常に役に立ちました。しかし、今になってふり返ってみると、いろいろな問題もおこって来ました。

アレルギー熱が高まり、学問の中心となるに従って、「アレルギーだけがぜんそくの原因だ」「アレルギーの治療さえすればぜんそくは治る」という今から考えれば誤った考え方が日本に拡がってしまったのです。

アレルギー研究の中心になっている学者がそう考えて、治療をし、学会にも発表し、テレビや新聞などでも話しをするので、一時は日本中の医者がそう信じて日本中、アレルギー、アレルギーという時代になってしまったのです。この時代か昭和35〜40年頃から数年前までつづいてしまったのです。

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