■尊敬すべき大人のいない子供の悲劇

昔の日本は生物としての健全性を維持していた国なんですよ。ところが、経済が成長してきたら、生物としての健全性を失った。私は、文明国は二次的に生物としての健全性を失う杜会だと考えています。豊かな杜会になると、構造的に子の育つ環境が壊れてきます。まず豊かになってくると大家族が壊れて核家族になることです。いまの日本は核家族はいいことだという。核家族のほうが土建屋さんが儲かって経済も強くなるから、日本の国は核家族化をどんどん勧めているわけです。でも、核家族というのは、生物としての人間にとってはよくないことなんです。

もともと人間は、ゴリラとかチンパンジーと同じ集団生活をする動物で、集団生活が動物としての健全さを維持するわけです。

それが核家族で生活するということは、猿でいえば、アフリカのジャングルにいるゴリラやチンバンジーを檻の中で飼うのと同じことなんですね。檻の中だから、近所づきあいもしないし、お祖父さんお祖母さんもいない。杜会知らずになるし、他人知らずになる。そのまま年だけとって、核家族という檻の中から大人の杜会へ行って、そこでみんなと仲よくしなさいといったって無理なんです。人の目は気になるし、どう接していいかもわからない。これが閉じこもり現象です。だから、核家族では子供は健全に育ちにくいのです。核家族という檻の中で住むことを自覚して、その中で核家族の弊害を防ぐためにはどうしたらいいかを考えるべきなんです。

教育の問題も大きい。教育には三つあって、一番奥のほうの脳を教育するのはいわゆる体育です。体育の次に、昔の言葉でいうと徳育がくる。徳育というのは人間としてしっかり育てる人間教育ですね。それから次に知育、つまり頭をよくする教育をするわけです。昔の人たちは、知育よりも人間教育を重視した。いくら知識教育をやっても人間性は立派にならないからです。だから、昔は教育はなくても立派な人がたくさんいたんですね。村の長老だとか駐在のおまわりさんだとか。子供からみたら、親も立派だし、学校の先生も政治家もみんな立派だった。だから、大人が尊敬されたわけです。

ところが、体育と人間教育をしっかりやらないで、知識偏重教育をやると、人間としてはダメで頭でっかちの人が世の中の指導者になるんです。いまの日本はそういう人たちが指導者になっている。政治家も役人も学校の先生もそうです。そういう人たちは、頭はよくても人間として立派というわけではないので、時々変なことをする。

いまも官僚の汚職とか企業の幹部の不祥事などが、毎日のように報じられていますね。

子供からすると全然尊敬できない。こういうのを指導者の崩壊症侯群というんですが、子供からみると、親たちも指導者で、その親たちもダメなんです。つまり、子供にとっては、人生の先輩として見習うべき大人がいなくなってしまった。これでは子供がおかしくなるのも当たり前です。

それから、昔は、子供が人間として成熟するための遊びが全部生活の中に入っていたんです。ままごとにしろお手伝いにしろ、大人になってから夫婦になったり働いたりするための練習で、みんな人間として成熟するためのものだった。ところが、豊かになると、子供を健全に育てるという遊びが価値のないものになってしまって、そうじゃない遊びに子供が引かれてしまうんです。悪貨が良貨を駆逐するという経済の法則と同じで、悪い遊びが出てくるといい遊びが追放されてしまう。そういう悪い遊びのことを、私は「悪魔の遊び」と呼んでいるんですが、悪魔の遊びが多くなったんですよ。

例えば、昔ならままごとや隠れんぼをやって友達と遊んでいたのが、テレビが出始めたころから子供は外で遊ばなくなって、テレビが子守りになった。その次にテレビゲームが子守りをするようになって、子供はそれにのめり込んでしまう。物心がつくころから悪魔の遊びが入り込んでしまう。

テレビゲームといったら、やっつける、殺すというものが多い。情緒を養わなきゃならない3歳のころから、日本の子供たちは残忍性を身に付けながら育っているわけです。

マンガや劇画も過激なものが多いし、中学か高校ぐらいになって、アダルトビデオだとかホラービデオにのめり込んでしまうと、神戸の少年のようになってしまうわけです。いまは悪魔の遊びのほうへのめり込んで育っている子供がとても多くて、そういう子供たちは必ず親子関係が希薄になっている。親が人生の先輩ではなくて、悪魔の遊びが人生の先輩になっているために、防ぎようがないかたちで子供たちが壊されていっているわけです。


無断で複製、翻案、送信、頒布するなど出版社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。

戻る | 次へ